SIN'S LAB

技術系の備忘録

メモ書き #9

 良いことや成功事例など自分自身が心地よいものを集めて参考にすることは有益であるけれども、それらを何も考えずに一般化して自分の見ている世界に当てはめてしまうのは自分にとって損どころか、相手に対しても損を与えうる。
 なぜなら、その心地よいと思ったことは、既に自身からみた心地よいというものであるだけで、はたから見れば全くそうは映らない(ことの方が多いかもしれない)
 しかし、そういったものを共有することさえも避けるべきであるとは思わない。誰かに受け入れてもらうことは嬉しいことであるし、逆に他の人の心地よいものを受けいれることもまた自身にとっての心地よさを生み出すかもしれない。

 だけれども、そうでないのもたくさんあるはずで、それが全体の過半数を占めていようがいまいと、それらは紛れないもない誰かの心地よいものであるはず。
 そう考えてみると、例え、心地よくはない、あるいは醜悪なものだと感じても、それが世界を二分したものではなく、自分にとっての心地よいものに対して、あるいは自分が依拠しているある基準から、あくまでも見たものだということを心に留めておく必要がある。それは自分にとっては到底受け入れられないものであっても誰かには受け入れられているものなのかもしれない。

 だが、ここで注意が必要なのはだからといって、何が何でも受け入れればいいのか?ということであり、私はそうではないと思う。自分自身を消してまで受け入れなければならないものは、それが世界全体で心地よいとされていても、自分にとっては紛れもない害でしかない。また、ある程度、みんなが共通して心地よいと思えるからこそ、守れるものもある(その範囲をどこまで適用するかにもよるが)。さらには、どうしてもどちらかを取らざるをえないような場合も存在しうる。

 ここで問題となるのは、受け入れなかったものに対してどう対応するかである。これは各々の自由である。しかし、醜悪なものが見えた時に、反射的に目をそらしてしまうことや跡形もなくなるまで叩き壊すことは、とても簡単であり、何より自分の心地よさの現状復帰には即効薬かもしれない。だが、そこでそれは自分の心地よさの現状復帰への強い欲望が見せた幻影であるのか、あるいは、防衛反応であるのか(前者は、上記の意味で、後者は前途の自分自身さえ壊してしまうような場合をここでは指すことにする)を問うこと、そして、そもそも目の前に現れたものは一体なんであるのかを問うことも必要ではないか。
 だがしかし、これはそう簡単なことではない。(こんなことを書いてきた本人でさえ)現状復帰への欲望が強すぎるのか、防衛反応が上手く働いているのか(働き過ぎているのか)。どうしても問うことを忘れ、それらに身を委ねてしまうことが多い。

 でも、ここで問うのを強制することを進めたってどうしようもないのかもしれない。様々な心地よさを個々人が持つ中で、そもそも、自分の心地よさが(ある程度)満たされていなければ、問うという気力すら起きないかもしれない。
 
 だからこそ、いま必要なのは、何が心地よくあるべきかとか、問わなくてはいけないというようなもの(ここでも一般化して当てはめてしまっている)など、原因を見つけるだけの対処療法ではない。まずは自身の心地よさを見つけられる、そして、満たすことができる環境であること、それを踏まえて、問うまでいかなくても、頭の中に浮かべられるような余裕を持つことができるようになることが必要なのではないか。そもそも、原因を見つけたとしても、それは(問題として捉えるのであれば)解決できる問題ではない、つまり、答えのない問題ではない、最初に戻るがそもそも自分自身の心地よさであり、それが無数に存在するのだから。